Archive for December 2008

黒いまきもの屋と白いまきもの屋

このサイトの、BLOGとそれ以外のページでは意識的に文体を変えているのだが、どうもまったくべつのキャラクターになってしまったようだ。家人がいうには、黒いまきもの屋と白いまきもの屋がいるらしい。むかしのUSのアニメみたいだが、なにも「黒い」なんて…たしかにBLOGではけっこう毒舌だし辛辣なことも書くけれど、そこまで言われなくてもいいような気が…いや、知人にも、普段のまきもの屋からはこんなBLOGを書くとは想像もつかないと言われたことがあるし…でもべつに「腹黒い」わけじゃないからいいか。

BLOG以外のページはいわゆる「営業用」だから、ポイントをしぼって、わかりやすく、しかも「営業」口調の文体にしている。いっぽうで、BLOGはじぶんの書きたいことを書いているわけで、まきもの屋の性格からしてどうも理屈っぽくなりやすいから、文体もそれなりに硬くなる。それでも話しことばをつかってみたりと、まったく考えていないわけじゃないんだが、ちょっと専門性の高いテーマになると、論文書きだったころのクセがでてきてしまうようだ。

かんけいないが、いわゆるアブラハムの宗教でいうところの悪魔はもともとは他宗教の神であったりするらしい。サタン=ルシファーはもともと全天使長だったが神に叛逆して堕天使となったとされている。『創世記』では、天から降りてきた天使たちが人間の娘の魅力にひかれ、ネフィリム(巨人)を生ませたというはなしがでている。ネフィリムは「ノアの箱舟」の洪水で全滅する。あるいは「受胎告知」で有名な大天使ガブリエルなんかは絵画なんかでは立派な翼をしょった美青年であることが多い。天使がお菓子屋やマヨネーズ屋のキャラクタにもちいられているような子供のイメージになったのは17世紀以降だったりする。ローマ神話のクピド(=キューピッド)からの借用だそうだ。いまはこっちのほうが主流だが、子供の頭と翼だけが宙に浮いているような天使の絵もけっこうあった記憶がある。

悪魔といえばやっぱり『ファウスト』にでてくるメフィストフェレスだろうか。ゲーテの戯曲が有名だが、もとは民間伝承で、イングランドのクリストファー・マーロウが16世紀にこれをもとに The Tragical History of Doctor Faustus を書いているように、いろいろな文学作品の主題としてもちいられたもので、ゲーテの『ファウスト』もそのなかのひとつということになる。ゲーテのメフィストフェレスは、個人的な印象にすぎないが、イタリア喜劇の道化、ブリゲッラやアルレッキーノのようなイメージがどことなくあってけっこう面白い。

ところで、トウガラシに"ciliegia piccante"というちいさな丸い品種がある。別名"bacio di Satana"(サタンのキス)という。来シーズンは挑戦してみようと考えている。乾燥ではなく主にフレッシュで用いるらしい。カイネンヌほど辛くはないということだが、どうだろう。サタン=誘惑者だから、どんなに魅力的なんだろうかといまから楽しみである。これ自体は完熟は赤色だが、US系の品種で黄色もあるから、赤、黄、緑の"multicolore"も可能である。ビエトラ(ブレット)といい、ビーツといい、よくよく"multicolore"が好きなように思われるかもしれないが、本人としてはいたって真面目に「商品開発」をおこなっているつもりである。

トピナンブール

和名「キクイモ」。学名は"Helianthus tuberosus"。つまり、フランス語の"topinambour"、イタリア語の"topinambur"と「キクイモ」は基本的にはおなじものである。フランス産のものがけっこうな値段で売られていたりするが、なにもそこまですることはない。群馬や長野などでは自生しているくらいだ。フランス産と日本のものとでは皮の色がちょっとちがうことがあるが、それだけである。

植物としては、ヒマワリの近縁だそうだ。右の写真はトピナンブール(キクイモ)の花だが、たしかにヒマワリに似ていると言われればそんな気もする。イヌリンやヴィタミン類を多くふくんでいることから、健康野菜としても注目されている。が、なによりフランス料理の食材としてじつに興味深いものなのだ。

この野菜、調理方法によって風味がかなりかわる。そういう意味ではじつに面白い。生食もできるし、ソテー、フリットなどなど。白眉は茹でてからマヨネーズやヴィネグレット、ソース・オランデーズで食べることである。あるいは裏漉ししてピュレやポタージュにするのもいい。どういうわけか、適切に茹でたときに、かなりアーティチョークを思わせる風味になる。茹ですぎてはいけない。水っぽくなるからである。かといってあまり火の通しかたが浅いと肝心の風味がひきだせない。

フランスでは、第二次大戦中の食糧難のときにせっせと食卓にのぼったため、戦後かなり長いあいだ嫌われ、忘れ去られた野菜だったという。それがふたたび注目をあつめるようになったのはせいぜいこの10年くらいだろうか。もともとあまりにも庶民的な食材だったのだが、意外なことにガストロノミーの世界で有名料理人がつかうようになったのである。そんな事情というか経緯があるから、きわめて伝統的なフランスの野菜にもかかわらず、日本のフランス料理人さんたちはあんまり使わないのかもかもしれない。あるいは単純に見た目が地味だから人気がないのか。とても面白い食材なだけに、まことに残念である。

「珍しい野菜」とは失礼な

とある業界紙を名乗る人物から電話があった。いわく、「珍しい野菜」を探しているので話をきかせろ、という。まきもの屋が栽培しているのは、基本的には、ヨーロッパではごくふつうの、あたりまえの「西洋野菜」であって、けっして「珍しい野菜」ではない。日本ではマイナー野菜だから、そういう意味で「珍しい」かもしれないが、だからといって、珍しいからという理由で栽培しているのではない。まったくもって失礼な話である。まきもの屋が栽培しているような野菜を「珍しい」ととらえるのは、ヨーロッパの食文化に興味がないか、興味はあっても無知ということだ。興味がなければそのまま知らなければいい。興味があるのなら己の無知を恥じるべきである。

いきなり電話をしてきて、「今どんな野菜があるのですか」などとたずねられたわけである。突然一方的に電話をしてきた、料理人さんでも八百屋さんでもない、つまりお客さんではない、しかも見ず知らずの相手になんでそんなことを答えなければならないのか。いや、答えましたよ。それくらいのことは。で、こちらからも質問した。「どういうわけでウチにお電話くださったのですか?」 なんと、インターネットで調べたという。頭が痛くなった。サイトを見たのなら、問いあわせフォームがあるんだから、それを使えばいいじゃないか。まあ、電話で話したほうがいいと思ったのだろう。それはいい。サイトを見たのなら、まきもの屋がどんな野菜をつくっているのか、どういうところに出荷しているのか、きちんと書いてある。そういうのを読んだうえで電話してきたんじゃないのか…。

なによりも残念きわまりないのは、「西洋野菜」を看板にかかげているのに、「珍しい野菜」よばわりされたことである。そんなことじゃ取材をうけたとしても、どうせ不正確か間違いだらけのことを書かれそうだから、「取材にお越しいただいても、お話しできないことや写真に撮ってもらいたくないものも多いですから」と言っておひきとりねがった。じつのところ、そんなに秘密なんてありはしないのである。八百屋さんや料理人さんが来たときには、ひととおり畑をご案内するし、場合によっては作業にもおつきあい願っている。「これ、写真に撮ってもいいけどWEBとかで公開はしないでくださいね」とお願いすることもあるにはあるが…

以前から決めていることなのだが、原稿の執筆依頼は慎んでおうけするが、マスメディアの「取材」は基本的にはお断わりしたい。せめてゲラをきちんとチェックできないと、何を書かれるかわかったものじゃないからである。逆にいうと、最終稿までチェックさせてもらえるなら、「取材」のかたちであってもおうけすると思う。もっとも、こんなことそうそうあるわけじゃないだろう。群馬の片隅の小規模な弱小農家なんて、誰も注目しないだろうし、そういう意味では、まきもの屋の存在なんて世間的にはないに等しい。それでいいのである。メディアに露出することでビジネスチャンスをひろげようなんて考えないのである。

BGM

バックグラウントミュージックなるものだが、これって一体、何のために流しているのだろう。きわめつけは、東京にいたころ、西武線の高田馬場とか所沢のホームで、なにやら流れていた。いまもそんなことやっているのだろうか。電車の発車合図がメロディになっただけでも相当に耳障りに感じる身としては耐えがたいものがあった。

レストランやカフェでも日本ではBGMを流すところはけっこうあるようだ。そういうのはなるべく耳をふさぐというか、意識しないように努めるのだが、やっぱり苦痛であることにかわりはない。でも、そんなことを言っても誰も理解してくれないから、つらいところではある。

BGMというのは、「聴かれない」音楽である。音楽というのは本来は表現行為だから、よい音楽、よい演奏であればそれだけ、聴く側も真剣にむきあわなくてはならないし、そうなると、「聴く」ということに全身全霊をかたむけるわけで、そういうのは演奏会とか、きちんとしたオーディオ・セットのまえで、身をただして聴くものである。そうじゃないと、アーティストにたいして失礼なんじゃないかと思う。レストランのお客さんが、話に夢中で食べるのは二の次というとき、料理人さんはどう思うだろうか。あるいは、料理人さんが精魂こめた料理を運び、お客さんの様子をみているサーヴィスの人間はどう思うだろうか。

20世紀の前衛音楽の巨匠、ジョン・ケージは、BGMを「ミュージック」ではない、「ミューザック」だといって嫌った。あの「演奏しないピアノ曲」として有名な「4分33秒」の作者である。芸術音楽の概念をある意味でひっくりかえしたひとがBGMを嫌ったというのは興味ぶかい。

「聴かれない」音楽としては、20世紀初頭のフランスの音楽家、エリック・サティの作品で「家具の音楽」とか、「ヴェクサシオン」(「退屈」の意。たんなるくりかえしを24時間以上やる奇作である)などがある。こういうのは、上で述べた、「表現行為としての音楽に真正面からむきあって聴く」という行為にたいするアンチテーゼである。そういうのは、一種の都市デザインとか空間デザインのような概念にむしろ近いものであって、オーセンティックな「芸術音楽」とは根本的にちがうものである。

BGMがこれとはちがうのは、ほんらいは「表現行為としての芸術」であるはずの音楽が、CDなりの録音でお手軽に消費されているという点である。ほんとうは「聴く」という行為を要求しているはずのものが「聴かれることのない」かたちで消費されている。芸術を粗末にしているような気がする。

CDみたいなかたちで芸術が大量に複製され、消費されるということについては、CDなんかなかったころ、ヴァルター・ベンヤミンが『複製技術時代の芸術』という本で詳細に分析している。これはいまもって読むに値する本だと思う。これとあわせて、オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』も読むと理解が深まるだろう。

ひどくヘタなピアノの演奏とか、音痴のカラオケがある意味で暴力だということに共感してくれるひとはいるだろう。おなじように、どんなにいい演奏であっても、どんなにすばらしい曲であっても、聴きたくないときはあるということを理解してくれるひとはどれだけいるだろうか。フランスやイタリアのカフェやバール、レストランでBGMが流れていたことは記憶にない。どんなに閑散とした店でも、それで「もの寂しい」という印象をうけたことはなかった。個人的には、むしろそのほうが心地よいと思っている。BGMが必要であるという積極的な理由がないかぎりは、余所がそうしているから、というのに倣う理由はないんじゃないか。有線やCDプレーヤー等の経費が減るぶん、いいような気もするのだが。

ホウレンソウのブルーム

写真のサムネイルをクリック、拡大してご覧いただきたい。念のためお断りしておくが、フィコイド・グラシアルでも、バラフでも、アイスプラントでも、プッチーナでも、プリアンでも、ソルトリーフでもない。れっきとした「ただの」日本ホウレンソウである。写真で、白いツブツブがあるのがおわかりいただけるだろうか。これは農薬の残留ではない。たんなる「ブルーム」である。ホウレンソウは品種にもよるが、寒い時期にはこういうブルームがでる。個人的には、おいしいホウレンソウのしるしみたいなものだと思っている。

ブルームというのは、植物が分泌する、一種の保護物質である。キュウリやキャベツ、果物ならブドウが有名だろうか。成分はそれぞれちがうみたいで、正直なところ、ひとつひとつ確認できてはいない。いずれにせよ、何らかの外的ストレスから身をまもるため、あるいはその結果としてでてくるものである。ホウレンソウのばあいは結晶状なのでわかりやすいのだが、キュウリやキャベツでは白い粉のように見えるので、誤解されやすい。

はなしをもとにもどすと、ブルームがはっきりでる特性をもっている"Bloomsdale"というUS系の品種も栽培しているが、こちらは晩生でまだ小さいため、写真をとらなかった。日本ホウレンソウは、個人的にはもっともおいしい品種だと思っている。ただ、葉柄がもろく、傷つきやすいので、市場出荷というか、営利栽培にはまったく向かない。出荷用に袋つめするにしても、一般的な品種の5倍くらいは時間もかかるし、ロスもすごい。まったくもって農家の自家用アイテムなのである。そういう、一般の流通になかなか乗りにくい伝統品種というのはけっこうあって、いまの季節だと、金町小カブとか、みやま小カブなんかもそうである。いぜん、みやま小カブを出荷用につくったことがあるが、手間があまりにすごいうえにロスが多くて閉口した。以来、みやま小カブは自家用のみと決めてある。いまも畑にはあるが、出荷する予定はない。

日本ホウレンソウは「西洋野菜」じゃないから、原則的には「おまかせ西洋野菜セット」にもふくめていないが、和モノを許容してくださるお客様や、ご要望いただいた場合には出荷している。そういえば、某大手の野菜宅配業者が日本ホウレンソウを商品化しようとして、なかなかうまくいっていないというはなしを以前に聞いたことがあるが、その後はうまくいったのだろうか。他人事ながらちょっと気にはなる。

調理してみてガッカリな野菜

ビーツ(キオッジャ)は、生だと白と赤の年輪模様が鮮かでとてもきれいな、インパクトのある見ためをしている。どんなにアクとエグ味がすくなくて食べやすいとはいえやっぱりビーツである。加熱したほうがおいしい。が、その模様をいかした加熱調理というのはまったく不可能ではないが、生のときほどのインパクトはなくなってしまう。ビーツの色素の特性を知っていればどうという問題ではないはずなのだが、まったく知らずに下処理をしたなら、かなりガッカリするかもしれない。そういう意味では、生のままの切りくちを販促用のチラシの写真につかっているのも、いささか罪作りなことなのか。

言い訳ではないが、フレッシュな状態での見ための鮮やかさとかインパクトが加熱調理したとたんに失われる野菜というのはけっこうある。代表的なのは、赤オクラ、紫インゲンや縞インゲン、紫カリフラワ、紫アスパラガスあたりか。赤オクラなんかは生のときの色の美しさゆえ、かなり罪な存在である。なにしろ茹でたら薄汚いくすんだ緑色になってしまうからだ。おおざっぱにいって、紫の系統の色というのは、野菜のばあいは加熱すると失われるものがあるから注意がひつようである。

料理の色合いと野菜の加熱具合のかねあいというのはまことにむずかしい。生あるいはさっとブランシールしたくらいのほうがきれいな発色をする野菜というのは多いからだ。だが、このBLOGでも再三再四主張しているように、西洋野菜のなかには、徹底的に加熱したほうがおいしいものがおおいのも事実である。見た目をとるか、味をとるか、それが問題である。きれいはきたない、きたないはきれい(1)、というわけにもいかない。でも、考えてみれば、肉にしたって魚にしたって、加熱したら色合いはかわるでしょう。肉なんかたいていは茶色になってしまう。生肉の鮮かな赤が焼いたら消えてしまったからといって、誰も文句はいわない。マグロの赤身だって炙ったら白っぽくなってしまうが、そんなの当然のこととされている。なのに、なぜ野菜にかぎっては、「調理してみてガッカリ」ということがおきるのか。

加熱調理してはいけない野菜というのもある。ルーコラ・セルヴァチカなんかそうだ。一般的なルーコラもおなじである。あの香りと風味は揮発性だから、加熱すると消えてしまう。あとに残るのはたんなる青菜の風味である。加熱したときの味と生のときの香りの両方をいかしたければ、一部は加熱しないでおいて、できあがりに生のものをちぎって添えるといい。

加熱によわいといえば、バジルの葉もそうである。これは低温にもよわい。すぐに黒くなってしまう。だから、バジルは買ってきた状態のまま冷蔵庫で保存してはいけない。もちろん、ペスト・ジェノヴェーゼのように加工をすると冷蔵庫でも色がかわらずに保存できる。

  • 注1) "faire is foule, and foule is faire", Shakespeare, Macbeth, I. 1.

ビエトラが美味い

煮込みやスープの美味しい季節である。サヴォイとビエトラ(ブレット)、夏に仕込んだトマトペースト("Opalka"というサン・マルツァーノ・タイプ)、豚バラでスープというか「ぐずぐず煮」をつくった。写真をとろうとしたのだが、湯気やらなんやらで、まったく上手くいかない。そんなわけで例によって写真なしでご容赦いただきたい。

今回のスープは、上記の材料のほかはニンニクと塩、コショウだけである。大きめに切った豚バラの表面をオリーヴオイルで焼いて脂をだし、そこに刻んだサヴォイと丸ままのニンニク2片をくわえて炒める。しなしなになったら水をくわえて、ビエトラと冷凍してあったトマトペーストを入れる。ビエトラは芯のほうの小さい葉ばかりをたっぷりつかった。だから切っていないが、大株なら適当な大きさに切ったほうがいいだろう。

これをストーブの上にのせて4〜5時間煮込む。煮込むというよりは放っておくといったほうがいいかもしれない。もっとも、煮つまってしまわないように、ときどき水分を補給してやらなくてはならない。もはや野菜の原型なんかないくらいまで煮込んだら完成である。4時間煮込んだくらいでは、サヴォイはまだ歯応えがのこっている。そういう野菜なのである。せっかちな向きは、圧力鍋をつかうのがいい。そういえば、西洋野菜の神様とも称えられるO氏がサヴォイを日本に導入した当時、料理人さんに「長時間加熱するように」と言ったにもかかわらず、料理人さんはプライドが高いのか自分の経験と技術を盲信していたのか、ちょっと煮ただけで、「堅くて使いものにならない」とクレームをよこした、というエピソードを思いだした。

ビエトラのほうは、さすがに4時間も煮ると、ほとんど原型がなくなってしまう。これがいいのである。ビエトラそのものの味とスープの味が渾然一体となる。もちろんスープにビエトラの味は溶けだして、「ダシ」のようになっている。ざんねんながら色あいははっきりいって問題外というくらい悪い。

イタリアでもフランスでも、加熱する野菜というのは、これでもかというくらいとことん火を通すことが多い。ホウレンソウなんかほとんどペースト状にするし、オレッキエッテ・コン・チーメ・ディ・ラーパも、チーメ・ディ・ラーパの花芽がバラバラになるくらいまで火を通す。そういう食文化なのである。背景となるものがそうだから、当然というか、イタリアやフランスの野菜というのは、とことん火を通したほうがおいしいものが多い。かりに、ビエトラでも、サヴォイでも、チーメ・ディ・ラーパでも、「野菜の持ち味を生かすように、さっと火を通しました」なんて言われようものなら、まきもの屋としては失笑を禁じ得ないかも知れぬ。生かすどころか味をひきだしていないだけの結果であることはそれこそ火を見るよりも明らかだろう。

もちろん仮定のはなしだが、じっさいにそういうケースがあるとすれば(というか、日本では多数かもしれないのだが…)、それはイタリアやフランスでの煮込みというもの、暖炉やストーヴというものもふくめた文化的背景にたいする理解の深さとかかわってくるように思う。現実にはそういう場面に遭遇したことはあまりないので、確言できないのだが、そんな気がしてならないのである。

野菜の加熱調理というのは、じつのところけっこう難しいものである。知らなければどうしようもないということもある。生かすべきあるいは引きだすべき味というのがあって、そのいっぽうで食べ手の好みというのもある。西洋野菜のばあいは、基本的に「異文化」だから、食べ手にどの程度あわせていくのかという問題がついてくる。

考えてみれば、西洋野菜の加熱調理について詳述した本というのはないような気がする。レシピはいろいろあるのに、どいういうわけだろう。