取引先の料理人さんからとても嬉しいメールをいただいた。「珍しい野菜」をつかいたくて取引きをはじめたが、野菜のおもしろさに目覚めたとおっしゃってくださったのである。火入れや調理法による味わいの変化がおもしろいということである。生産者として、こんなに喜ばしいことはない。
野菜というのは、大量生産の工業製品みたいにすべてが一定した品質、味をもっているわけではない。ある意味では手工業製品にちかいかもしれない。いや、天候やら何やらの外的要因に左右されるから、それ以上に不安定な性格がある。その不安定さというのは、たとえばおなじ畑に植えてあるレタスであっても、収穫のタイミングや、個体差や、収穫後の管理や輸送といったさまざまな要因で、まったくおなじ味とはいえないことに表れている。
ただ、そういう味わいの変化はとても微妙なものだし、「美味しい」ということが文化的、個人的な、いってみれば相対的な価値観である以上はどれがただしいなんて言えない。そういう微妙な変化をうまく捉えて、皿のうえに表現してもらえるなら、生産者冥利につきるというものである。
料理人さんは毎日、膨大な種類の食材をあつかっている。そのなかで、野菜というのはやっぱり「付け合わせ」だったり「ダシ」の材料だったりと、どうしてもオマケみたいな、副次的なイメージがある。それはそれでいいと思う。まきもの屋自身、レストランの客として期待するのは、肉の火入れ、この一点に尽きるとさえいえるのだ。それでも、やっぱり生産者としては、野菜もふくめた素材すべてと真摯にむきあって仕事をする料理人さんとのおつきあいを大切にしたいと思っている。なにも野菜料理を中心にしてくれなどとはまちがっても言わない。付け合わせなら何とどうあわせるのか、必然性はあるのか、そういうことを考えて調理してもらえると嬉しい。
山の中で暮らしているとあんまり外食する機会はないのだが、それでも、野菜を粗末にしちゃっているな…という感想をいだかざるを得ない料理にしょっちゅう出くわす。というか、ほとんどである。量が多いとか少ないとか、そういうことではない。ニンジンはこういうもの、キャベツはこういうもの、という思いこみからか、目のまえにある素材を理解せずに「お決まりの」、いってみれば「手癖」で調理しているんじゃないかと感じるものがたくさんある。
むずかしいのは、雑誌などをみていると、野菜をウリにしているレストランであっても、かならずしも野菜を大切にあつかっていないと思われるような料理がすくなからずあることだ。ある雑誌で紹介されていた「野菜のグリル」。ブロッコリ、アスパラガス、パプリカ、ジャガイモ、ネギをおそらく下処理なしで真っ黒な焦げ目がつくように焼いたもの。言葉ではなかなか表現しにくいが、写真をみれば一目瞭然。不快きわまりない。野菜をグリルすることを云々しているのではない。その焼きかた、とりあわせかた、そういうのが問題なのである。
昨12月に、家人がよばれた結婚披露宴で、あの有名な「農園野菜のテリーヌ」の劣化コピー版に出くわしたという。インゲン、ニンジン、ゴボウ、紫イモをコンソメのジュレで固めて、周囲はサヴォイ、さらにそのまわりに生ハム、という内容らしい。料理名は「有機野菜のテリーヌ」とかいうものだったそうだ。有機云々はべつにして、どの野菜も下ゆでしただけのもので、インゲンやサヴォイは加熱がたりずゴリゴリだったらしい。ソースはなし。見ためだけの、とても料理とはいえないシロモノだったという。ご本家の「農園野菜のテリーヌ」は沢山の種類の野菜を素材ごとに塩ゆでやブイヨンで煮るなどの下処理をしてあるはず。それはともかく、冬にインゲンですか? それも乾物の豆じゃなくてサヤインゲン… しかも生煮えとは…
ポトフという一般には誤解されてしまった料理がある。あれは肉と野菜からでるダシをたのしむ料理である。いまどきの甘いばっかりで香りのないニンジンや、ポワローのかわりに根深ネギや下仁田ネギをつかっても、とてもじゃないがポトフにはならない。日本の家庭料理としていつのまにかひろまったポトフにいたっては、キャベツ、ニンジン、タマネギ、ソーセージなどをコンソメか「ポトフの素」で煮るものになっている。よそからダシを投入しているわけである。
ラタトゥイユにしてもそうである。ほんらいなら、オリーブオイルと塩だけで野菜を煮込む。水なんか入れない。野菜から味がでるまで煮込むから、煮崩れているのがただしい。なのに、どういうわけか「ラタトゥイユの素」なる商品がある。こういうのは、「野菜に味なんてロクにないから」という発想である。もちろん素材の問題もあるだろうが、野菜を粗末にあつかっている典型的な例だと思う。
いや、フランスでもイタリアでも、野菜なんてものはけっこう「粗末」にあつかわれているのが現実である。そのへんの町場のビストロとかトラットリアで出てくる野菜なんてひどい仕打ちをうけている。イタリアでは、まえにも書いたと思うが、コントルノにたのんだ野菜のグリルに感動したことがある。でも、そういうのは稀有な体験だった。現実はそんなものなのだから、まきもの屋のごとき田舎者の水呑百姓の戯言など捨ておけばいいだろう。