Archive for February 2009

ひとりでもchef?

いや、たしかにそういう用法はむかしからあるんだが、"chef"が文脈ぬきに「料理人」の意味で通用するようになったのはそんなに古いはなしじゃないと思っている。10数年まえは"chef cuisinier"というほうが一般的だったような気がするのである。そもそも「チーフ」という意の語である。ところが、いまどきは料理人さんという意味でこの語をつかう。このあたり、まきもの屋の誤解があるんだろうか…。手元のLe Petit Robertでは料理用語として"chef de cuisine, chef cuisinier [...] pâté du chef"とでている。

イタリア語でも"chef"(発音はフランス語とおなじ)というんだが、Garzantiというイタリア語の辞書では、"capocuoco di ristorante o albergo importante"と定義されている。つまり、トラットリアとかピッツェリアの料理人さんは"chef"じゃないということになる。"Capocuoco"は「料理長」であって、「料理人」は"cuoco"である。

まきもの屋は「長いものには巻かれる」性格だから(ここ笑うところですので…)、普段、料理人諸氏を「シェフ」とお呼びしている。これは日本語だから、自然にそういう言いかたになる。日本語では「シェフ」=「料理人」 の呼称なのである。あくまでも、フランス語やイタリア語のときになんか奇妙な感じになるのである。

いや、Escoffierが確立した「旅団方式」では「総料理長」の下に部門別のチーフがたくさんいるわけで、それぞれ"chef"という職名なのである。それはよくわかる。でも、というかだからこそ、"chef"というと"second"や"comis"、"apprenti"がいっぱいいるようなイメージになるんだが、これはコトバの感覚が古いだけなのだろうか。まきもの屋は「農場主」とか「農場長」なんてとても自称できないんだが…。

どうでもいいが、カタカナとか日本語の説明を省くとじつに書きやすい。まきもの屋の頭のなかというのは、こういう具合になっているのである。

そんなわけで、またいっそう難解なBLOGにもどる?

ただでさえ、取引先からも「難しい」といわれているまきもの屋のBLOGだが、当面のあいだ野菜の名称については日本語(カタカナ)表記をやめることにする。いっそのことイタリア語かフランス語でBLOGを書いてもいいかな、という気にもなるのだが、いくら語学力をウリにしているとはいっても、そこは日本の百姓、日本語のほうがいいのは当然である。

イタリア語とフランス語というのは、言語学的にはちかいものなのだが、意外なことに、話すときや書くときに混ざることはあんまりない。まきもの屋はフランスでイタリア語を習うという変則的な経験をもっているのだが、そのときの先生から「わからない語はフランス語をイタリア風に発音すれば通じることもある」というふうに教わって、たまに意図的にそういうことをするくらいである。さらに意外なことに、英語を話そうというときに、どういうわけかフランス語が混ざることがあって苦労することがある。本人に自覚がないまま、話が通じなくなるから始末がわるい。英語のメールを書くときもそういうことがあるので、これは家人にチェックしてもらったりする。フランス語を話したり書いたりするときにほかの言語が混ざることはない。これはかつてフランス語を教えることで生活の糧を得ていたのだから当然か…。

いや、難解といったって、ちょっと外国語が混ざるくらいである。どのみちたいしたことは語っていないし、そのままスルーしていただければいいのである。日本語の文章で読めない漢字があったとしても、文脈でなんとなくわかるでしょう? それとおんなじなんだから、ご愛読くださっている諸賢におかれては、適宜伏せ字のようなつもりで眺めていただければ幸いである。

栽培品目リストの日本語表記を消したわけ

そもそもさいしょは日本語表記なんてしていなかったのである。で、気まぐれというかちょっとした気分でしばらくのあいだ栽培品目リストや最新情報のページで日本語(というかカタカナ)表記をしていたのだが、ふたたび気がかわってイタリア語とフランス語の表記だけにすることにした。

なんのことはない、これらのページは料理人諸氏に見ていただくことを想定しているだけのことなのだ。逆にいうと、原語表記でおわかりにならないようなら、そもそもまきもの屋の野菜を必要となさってはいないということである。それに、産直の「おまかせ西洋野菜セット」の納品伝票は原語表記のみとさせていただいている。その日の畑の都合で変わるから事前にプリントできず、どうしても手書きになってしまう。原語のほうが圧倒的に早く書けるのである。いまのところ不都合はないようなので、WEBサイトのほうもこれにあわせていいと判断した次第である。

ポップコーン

わが家では冬のおやつの定番である。キッチュなお菓子と侮ることなかれ。けっこうおいしいのである。もちろん、こんなもの売るほど栽培できない。いや、栽培じたいは簡単だが、乾燥に手間がかかるのである。ポップコーンはいわゆるスイートコーンとは種類がちがう。ポップッコーン専用品種でなければならない。八百屋やスーパーで売っているトウモロコシを乾燥させてもポップコーンはできないのである。

そもそも、トウモロコシには、青果用のスイートコーン、飼料および工業原料にするデントコーン、「モチトウモロコシ」といわれるワキシーコーンなどいろいろな種類がある。料理でよくつかわれるベビーコーン(ヤングコーン)はスイートコーンのごく若いものである。スイートコーンは元来は1株で1房だけ収穫するもので、それ以外の房はごく小さいうちにとりのぞく(除房)習慣があり、ヤングコーンはもともとはその副産物である。いまどきは、除房しないで2房以上収穫できる品種もあるので、事情はかわってきているはず。このあたりは、元来はポワローの間引き菜であったポワロジューヌが、いまでは商品として栽培され、専用品種がでまわっているのとやや似ているかもしれない。なにしろ、まきもの屋もミニ・ポワロー専用の栽培体系を構築しているくらいである。

というわけで、乾燥途中の画像である。倉渕は雨が多いせいか、ちゃんとはぜるようになるまで乾燥させるのはたいへんで、家人のはなしによると、1ヶ月以上はかかったという。もちろん天日干しである。ちなみに、ドライトマトのばあいはかんぜんに天日干しをするのは絶望的にむずかしいので、はじめからあきらめてオーブンをつかっている。

西洋野菜ってほんとうに必要?

これを言ってしまっては自己否定になりかねないのだが、ときどき、そう思うのである。そりゃそうだ、業界専門誌にビーツ(キオッジャ)をつかった料理が2皿も紹介されているのに、どちらも生のままスライスしただけなんだもん。いや、一方は生のほかに油で揚げたチップスもあったか。いずれにしても、否定はしないけれど、生産者としてはあんまりうれしくないのが正直なところである。生のままでないと見た目のインパクトがうしなわれるのはよくわかる。でも、うすーいスライスを一皿に1、2枚というのじゃ、ビーツ1ヶで何十皿できるだろう。

おまかせ西洋野菜セットの定番品にルーコラ・セルヴァチカがある。取引先からはご好評いただいているのだが、どうしても市場出荷するほど生産拡大に踏みだせない品目である。ある八百屋さんに、ちょっと味をみてもらったら、他産地のものより風味がかなりつよいという。こんだけ強いんじゃサラダ感覚でたっぷりつかってもらえないから、商売にならないですね、あっはっは…というわけである。

だが、ビーツ(キオッジャ)のばあいは、量をつかってもらえないからどうこうというわけでもない。それよりも、生のままじゃこのビーツのポテンシャルをまったく活かせていないことのほうが残念なのである。どうしたってビーツは加熱したほうがいい。茹でるのでも、焼くのでもいい。たしかに加熱すると、見た目のインパクトはうしなわれるが、味わいは一般的なデトロイトとくらべても格段に洗練されているはず。比較的アクもすくないし、甘みと香りのバランスもいい。食べものなんだから、見た目ばかりじゃなくて、そういうところに注目してほしいと思う。

そんなこんなで、ひょっとして、必要とされているのは「ホンモノの西洋野菜」じゃなくて、「珍しい野菜」なんじゃないか、そういう疑念がどうしても頭からはなれないのである。だが、珍しいものは売れないから珍しいのである。これは如何ともしがたい現実である。売れるものはみんなが栽培するから、たくさん出回ることになる。結果、珍しくもなんともなくなる。それに、さいしょは珍しいといっても、それがいつも手にはいるようになれば、見慣れてしまって、あたりまえのものになってしまう。だから、「珍しい野菜」をウリにするというのは、つねに陳腐化への道筋を内在させている。商売として考えたとき、「高付加価値商品」が陳腐化するというのは致命的なことである。

そうはいっても、まきもの屋の商品の多くが「おもしろ野菜」としてあつかわれているのも現実なのである。そりゃ、まきもの屋だって商売だからいろいろやりますよ。今年から本格化させる"multicolore"シリーズなんか、「イタリア、フランスであたりまえの西洋野菜を現地と同等以上の品質でご提供」という、まきもの屋の基本コンセプトとは かんぜんに矛盾している。まさしく「おもしろ野菜」でしかないかもしれない。その可能性は否定できない。けれど、野菜というのは、おなじ条件で栽培されたなら、品種によって味が多かれ少なかれちがうのも事実である。"multicolore"シリーズは基本的に複数の品種のくみあわせからなっている。だから、見た目のおもしろさとともに、味わいの変化もたのしんでほしい。偽らざる本音である。

「オレッキエッテ・コン・チーメ・ディ・ラーパ」という料理は、スティックブロッコリや菜の花で代用するのと、チーメ・ディ・ラーパをつかうのとでは、かなりちがったものになるはず。インディヴィア・スカローラのアンチョヴィ炒めだって、いわゆるエンダイブで代用するのとじゃやっぱりちがうはず。バーニャ・カウダにはカルドがはいっていてほしいし、リボッリートにはカーヴォロ・ネーロをつかってほしい。そういうところで料理をグレードアップするのはいかがでしょうか、というのがまきもの屋からのご提案である。

それなんて青汁?

あんまりこういうことは書かないようにしているのだが、さすがに生産者としてはちょっと…というのを見てしまったので、各方面からのお怒りを覚悟で書かせていただく。

カーヴォロ・ネーロである。だいぶ一般化してきたみたいで、国内品種もでまわっている。まことによろこばしいことなのだが、こんなリチェッタをみてしまうと、考えこんでしまうのである。リチェッタは2つ。どちらもピュレである。皿のうえではサルサみたいな位置づけのようだ。いわく、一方は3分間の下茹で、他方は10分間で、そののちにミキサーを回すということである。もちろん、ブロードやらを加えているんだが、それにしても茹で時間がみじかすぎるように感じるのである。

たしかに、氷点下の気温に連日さらされて霜にあたったカーヴォロ・ネーロはけっこうはやく柔らかく煮える。それは事実なんだが、ふつうに流通しているものが、そんなに寒さにあたったものだとは考えにくい。リボッリータにつかう野菜である。そんなにはやく火がとおってもらってもこまる。時期によっては、最低でも1時間は茹でないとやわらかくならない。そういうものなのである。

リチェッタの意図はわかる。濃い緑色が欲しいのであろう。だから、茹で時間がみじかいのだろう。ただ、そうなると濃い緑色でありさえすれば、なにもカーヴォロ・ネーロじゃなくてもいいはずだ。極端なはなし、サヴォイの外葉でじゅうぶんなはずである。もちろん、サヴォイは外葉なしで売られていることもあるし、そういう意味で確実性のひくい材料だから、公開するリチェッタにのせるべきではないかもしれない。が、そんなことよりも、「黒キャベツ」という、やや認知されてきた、しかし「本格的」な雰囲気もある食材をつかっているということそれじたいに意味がある、という気がしてならない。

いや、じっさいに3分とか10分の下茹でをしたカーヴォロ・ネーロをミキサーにかけて味見をしたわけではないから、「カーヴォロ・ネーロはじっくりと加熱すべし」というまきもの屋の「思いこみ」から勝手に不機嫌になっているだけのことに相違ない。でも、リチェッタをみるかぎりでは、濃縮の冷凍青汁をつかっても結果がそんなにちがわないような気がするのは素人考えだろうか。

じつは、つい先日、国内でカーヴォロ・ネーロの選抜育成をしている種苗会社を訪問してきたばかりなのである。いまつかっているイタリア種はちょっと形状の安定性がひくいから、その点をクリアできているのであれば、今シーズン以降、品種を変更しようかという目論見もあったのだが、上記のリチェッタをみて、すっかり考えこんでしまった。なにしろ、いまをときめく有名料理人お二方のリチェッタなのである。

知らないほうがいいということはけっこうある。誰がどういう調理をしようと自由なのである。一介の生産者にすぎぬまきもの屋がじぶんのつくった野菜でもないものを云々すべきではない。いや、じぶんのつくったものであっても、ひとたび料理人氏の手にわたしたなら、そこからさきは何もいうべきではない。レストランの客がどういう食べかたをしようと -- たとえウイスキーの水割りを飲みながらコース料理を最初から最後まで食べているとしても -- 店の側はなにもいうべきではないはず。それとおなじである。わかってはいるんだが…

皿をあたためる

倉渕の冬はきびしい。寒いからアツアツの料理を皿に盛ってもすぐに冷めてしまう。すこしでも冷めるのを遅らせるために、ちょっと気合をいれて料理したときなどは、オーブンで皿をしっかりあたためることにしている。ただ、この方式は、オーブンをつかう料理のときはダメである。一般家庭の台所の限界である。

かんけいないが、むかしパリにいたころ、カフェでステーク・フリットを注文したら、フリットを切らしてしまったから「ステーク・サラド」でいいか? といわれ、OKしたところ、はげしく後悔することになったのを思いだした。あたたかい料理と冷たい料理がひとつの皿にのっているのが不幸の原因だったのである。だから、イタリア料理でビステッカのコントルノにインサラータ・ミスタをたのむのはいい。コントルノは別皿だからである。

ついでに思いだしたのだが、フランスでラザニエ(ラザーニュといって、女性名詞単数あつかい。Une lasagneとなるのがおもしろい)を注文すると、かならずといっていいほどバターヘッドレタスが添えてあった。この取りあわせ、上で書いたことと矛盾するようだが、バターヘッドレタスが冷たくなければ、けっこうイケる。熱でくたっとしちゃっていいのである。ラザニエのソースで食べるわけで、ヴィネグレットなんかつかわない。ただ、どんなレタスでもいいというわけじゃなくて、バターヘッドじゃないとおいしくないみたいだ。イタリアでラザニエを食べる機会がなかったので「本場」の味は知らないのだが、わりと気にいっている。もっとも、レタスのおいしい時期には忙しくてラザニエなんかつくっているヒマがないので、この数年はやっていないが…。

気候がおかしい

どうも季節の移りかわりが1ヶ月ちかく早く感じる。もっとも、またしばらく冷えこむみたいだから、単純に暦がずれているというよりは、気候が無茶苦茶になっているような…。

あの有名なフランスの篤農家ジョエル・ティエボー氏が、宅配業者のサイトでだが、 天候がおかしくて野菜セットに予告していたレタス類の生育がわるいため、代替品として若どりのホウレンソウにするという旨の告知をしておられる。このエントリの書きだしでは、「百姓がまた愚痴を言わせていただくのだが…寒さ、雪、雨、嵐、それから? 悪天候がつづき、野菜が難しくなってしまい、ほとんど成長しないし形もできてこない」とおっしゃっている。

アチラでは寒波の影響がすごいらしく、WEBで天気情報サイトをみるだけでも、かなりの低温がつづいているようだ。ヨーロッパの気象は数ヶ月遅れで極東方面に反映されることがあるのだが、このあたりはなんとも言えない。ただ、日本でもヨーロッパでも、天候とくに気温がおかしいことだけはたしかである。単純に「温暖化」ということはできないだろう。

まきもの屋もふくめ、農業者は今シーズンの気候にはやくも戦々恐々としているのが実情だろう。もはや「マトモ」な天候の年なんかないといっていいかもしれない。「今年も異常だから」というのが挨拶がわりだったりするくらいだ。

ところで、上述のフランスの野菜宅配業者のサイトでは、ジョエル・ティエボー氏の野菜セットの内容や、氏のインタビュービデオを見ることができる。ほかにも、興味深い生産者が複数おられる。フランス語のわかる料理人諸氏には、ぜひいちどご覧になられることをおすすめする。

野菜スープ

またまた出来のわるい写真で失礼! 冬の日常の食事はほとんどがこれと、野菜をこれでもかというくらいたくさん入れた味噌汁、コメの飯である。この野菜スープ、ようするにある野菜を鍋で煮込んだだけで、とくにきまったレシピなどない。今回は家人作。サヴォイ、カブ(2種)、ポワロー、牛スジ少々、塩、コショウ、ロリエ、ニンニク、オリーブオイル。ブロードや固形スープの素なんかは入れない。必要ないのである。さいしょにたっぷりのオリーブオイルでポワローとサヴォイ、ニンニクをじっくり炒める。それだけで野菜からじゅうぶんダシがでる。2日目になると味がクドくなるくらいである。それに、日常の食事だから、あんまりにも「旨すぎる」のも困るのである。

味噌汁もダシはつかわない。イリコはまだしも、カツオのダシをつかった味噌汁というのはどうも好きになれないのである。味噌というのは大豆タンパクが微生物で分解されているわけだから、ようするにアミノ酸たっぷりなのである。そこにわざわざダシのかたちでアミノ酸を添加するというのは屋上屋を架すようなものなのだが、そういえるのは、味噌がおいしいものでなければならない。そのへんで手軽に買えるようなメーカー品は…。もちろん、味噌汁に入れる野菜の種類が少ないときなどは豚コマなんか少々足すから、それがダシの役割をはたしているということもできる。

以前、ある「高崎イタリアン」つまりピザ兼スパゲティ屋(この種の店がじつに多いのである)に行ったときに、クリーム系のソースのパスタに旨味調味料がおどろくほどたっぷり入っていた。舌が痺れるとかそういう次元じゃない、文字通り気分がわるくなった。ある筋から聞くところによると、その店では「ペペロンチーノ」にも旨調をつかっているらしい。トマトソースなんかもそうなのだろう。トマトなんかグルタミン酸たっぷりなのに…。でも、そういう店にかぎって繁盛しているのである。

ツェルリーナ

オペラのはなしのついでといっちゃ何だが、調子にのって貼ってみる。モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』から。例によってあらすじなどはリンク先のWikipedia参照いただきたい。

これを嫌いなオトコはいまい。いや、言っておくが、マゼットは怒っているのである。激怒である。憤怒である。そりゃそうだ、結婚式の当日に嫁がほかの男にフラフラとついて行きそうになったのだ。ツェルリーナの媚態に篭絡されるわけがないのである。でも、この歌で篭絡されちゃう。1987年のスカラ座、ムーティ指揮。知っているなかではいちばん演出、映像、演奏のバランスのよい、好きな製作である。ついでに、劇中の順は前後するが…

ドン・ジョヴァンニがツェルリーナを篭絡するツメの場面である。じつに美しい。対句的に、これをわからぬオンナはいまい、と言いたいが、やっぱり、オトコたるものかくありたい、というのが本音か。もっとも、ドン・ジョヴァンニはこのあとさんざっぱらひどい目にあって、さいごは地獄堕ちなわけだ。ここで、クンデラの創造したトマシュが、ドンファンとして生きトリスタンとして死んだというのを思いだす(『存在の耐えられない軽さ』)。が、これについて書きだすとまたきりがないので、とりあえずモーツァルトの天才に感嘆するのがいい。

La Serva Padrona

たまには食べものに関係のないハナシでも…。カルネヴァーレ(Carnevale)の季節である。カルネヴァーレといえば道化、道化といえばオペラ・ブッファというわけで…。

ペルゴレージ『奥様女中』の終曲である。くわしくはリンク先(Wikipedia)をご参照の程。歌詞を写しておくと

SERPINA: Per te io ho nel core / Il martellin d'amore / Che mi percuote ognor.
UBERTO: Mi sta per te nel core / Con un tamburo d'amore / E batte forte ognor.
SERPINA: Deh! senti il tipiti.
UBERTO: Lo sento, è vero, si. / Ti senti il tapatà.
SERPINA: E vero, io sento già.
UBERTO: Ma questo d'esser puo?
SERPINA: Io non so, / Caro sposo.
UBERTO: Cara sposa.
(a due) Caro./ Gioja. / Oh Dio! / Ben te lo puoi pensar.

好きな者にとってはたまらないんだが、たいていの方には「こいつら何やってんだ?」という感じだろう。が、イタリア文化に関心があるなら、とくに職業としてなんらかの関わりをもっているなら、好き嫌いはべつにして、こういうものについても知っておくのは損ではないはず。

演劇的には、ウベルトはパンタローネ、セルピーナはコロンビーナというコメディア・デラルテの典型にもとづいている。このほかに、ヴェスポーネというセリフのない役もあって、これはアルレッキーノの類型に属する。

もちろんイタリア・オペラなんだが、18世紀フランスでラモーとルソーが周囲をまきこんで繰りひろげた「ブフォン論争」のきっかけになった作品でもある。その後、19世紀になるとフランスとくにパリではイタリア・オペラが大流行、ジュディッタ・パスタやマリア・マリブランが一世を風靡し、ロッシーニが一時代を築くことになるのだが、それはまた別の話ということで…。

お口直しに、マリア・カラスのトスカでも…

ファットゥーラ

タネ屋から"fattura"(明細書)だけが先に郵便で送られてきた。たいていは、品物に同封か、あとに届くことが多い。この"fattura"にある注文分だけで36品種、ほかのタネ屋に注文しているものもあって、ぜんぶで100くらいになるだろうか。去年の残部でつかえるものは注文していない。

ところでお気づきだろうか、写真に"lenticchia"(レンズ豆)とあるのが。そう、ちょっと試験栽培をしてみようかというのである。圧倒的に輸入品優位の品目なので、「面白いかな」という程度の動機にすぎない。ま、自家用である。"Ceci"(pois ciche)よりは栽培しやすいかな…。それから、上のほうにある"cappero"(câpre ケイパー)も…、もっともこちらはほとんど期待はできないだろう。そのくらい失敗する可能性がたかいのだが、実を食べたいのである。うまくいったらいいな…。

裏方の裏方

ちょっと気取ったことを書いてみる。いつもの如く、ムダに難解な戯言、というか、意味不明な文章だろうから、例によって、生暖かくスルーしていただきたい。

レストランが劇場だとする。お客さんそれぞれが主役である。お店のスタッフ、サーヴィスのひとも料理人さんも、みんな裏方である。出入りの業者やわれわれ生産者というのは、さらにその裏方である。裏の裏だからオモテだなどということはない。ここまでは異論はあるまい。

ちょっと厄介なのは、レストランという劇場では、お客さんは観客でもあるということだ。このとき、主役は料理長であり、また、料理そのものである。カメリエーレ、ソムリエは準主役といったところだろうか。シュエイクスピアは劇中劇を多用したが、これに似た構造である。有名なところで、『ハムレット』にあてはめてみるといいだろう。ハムレットはいうまでもなくこの芝居の主役である。彼は旅芸人の一座に芝居をさせる。これをハムレット=レストランの客、旅芸人の一座=レストランのスタッフ、と考えてみる。あくまでも、ほんとうの主役はハムレット=レストランの客である。が、彼はレストランのスタッフの演じる劇中劇の観客でもある。そういう構造である。

劇中劇というのは、文学とくに物語の分析をするときには、「入れ子」構造という用語をつかうのだが、外枠である全体の物語とそのなかで「入れ子」になっている内枠の物語において、しばしば相似形あるいはそれに準ずる構造をもつ。いまは研究論文を書いているわけじゃないから、そういうものなのだ、ということで勘弁ねがいたい。

『ハムレット』でいうなら、王の死というモチーフで外枠の物語と劇中劇が共鳴する。それとおなじで、レストランのそれぞれのお客さんの人生という物語とその劇中劇であるレストランのスタッフと料理が演じている物語はなんらかのかたちで共鳴するのである。ちょっと程度のひくい喩えをするなら、「東京イタリアン」におけるアンティパスト→プリモ→セコンド→もういちどプリモ、という食事の流れである。お客さんの意識下にすりこまれている「炭水化物=ご飯はさいごの〆」というのにうまく共鳴するのだろう。

ひとは、まったく未知のものをいきなりすべて理解することはできないし、ましてやそれを楽しむということはない。未知のものに触れるとき、それまでの知識、体験からなる体系のなかで理解しようとするのである。このBLOGでもたびたび俎上にのせた、パンとバターの問題なんか わかりやすいだろう。バターをオリーブオイルに置きかえるくらいであれば、すぐに理解できるのである。が、パンにたいするバターが、コメの飯にたいするフリカケあるいは梅干のようなものだということまでは理解できない。そうなると、「ウチの店はバターもオリーブオイルもだしません」というのがお客さんによっては、理解不可能なことになってしまう。

あくまでもお客さんは主役なのであり、劇中劇の観客である。劇中劇のほうから外枠の物語に干渉するのはおこがましい、ハズなのだが、このあたりから問題はややこしくなる。たとえばモーツァルトのオペラ『コジ・ファン・トゥッテ』(台本はダ・ポンテ)。二人の若者が恋人の心をためすために芝居を打つのだが、ドン・アルフォンソというおじさん(イタリア喜劇の定型でいうとドットーレ)が糸をひいている。で、一種の劇中劇のようなものが展開されるわけだが、この劇中劇というか、ドン・アルフォンソが『コジ・ファン・トゥッテ』の物語の展開を決定づけているように見えるのである。

ドン・アルフォンソを「作者の分身」とみてもいいし、虚構の世界の「もうひとりの作者」としてもいいのだが、ほんらい「従」にあるはずの入れ子になっている世界から、外側の主役の世界への干渉ということになる。イタリア料理でいえば、「食事の流れは前菜→プリモ→セコンド→ドルチェですよ」とお客さんに提案することは、いってみれば劇中劇の側から本来の主役にたいして影響をあたえようとする行為ということになる。それはかならずしも否定されるべきことではないと思う。ただ、忘れてはならないのは、ほんとうの主役は誰か、ということである。

ところで、いまどきは、「素材が主役」というようなことをおっしゃる料理人さんもおられる。生産者をクローズアップするようなマーケティングも多い。本心からそう言っているのかどうかは知らないが、「裏方の裏方」まで劇中劇にひっぱりだされた格好である。ヘタをすると、「その料理のほんとうの作者は誰?」ということになりかねないほどである。ピランデルロの『作者をさがす六人の登場人物』か? 生産者はモチーフを提供しているだけなんだから、料理長がレストランの劇中劇の作者でなくてはならないのだが、そうではない、という身振りをとるわけだ。で、生産者も舞台にでてきて役柄を演じることになる。

そう、「演じている」のである。そのことを自覚しているかどうかはべつとして、ある役割を演じていることは否定できまい。シェイクスピアの「この世はすべて舞台、男も女もみな役者にすぎない」を思いだすといいだろう。まさしくこの意味において、まきもの屋は「裏方の裏方」を自任している次第である。

牛テールの赤ワイン煮込み

何の写真だかさっぱりわからない出来だが、牛テールを赤ワインで煮込んでいるところである。ネット通販でオーストラリア産の冷凍モノを買ったのである。まったくもって便利な時代である。割高にはなるし、業務用サイズ(このテールは2本セットだった)だから使いきるのに工夫がいるが、こういう食材で個人で手にはいらないものはないんじゃないか、と思わせるくらい、いろんなものを売っている(業者にもよるけれど)。

どうしても豊洲に移転するのか…

築地の移転問題である。日経新聞の記事によると、東京都は豊洲の汚染対策工事費用586億円で正式に計画を発表。東京都のサイトをみても、「築地市場は平成26年12月、豊洲に移転します」とはっきり明記してあるくらいだ。

築地市場は東京都のものだから、持ち主の意向には逆らえない。まきもの屋は都民じゃないからなんにも言う権利がないんだが、市場の移転は影響が大きすぎる。「築地ブランド」がそのまま移行できるとは思えないのである。

市場の移転よりも、都庁の雨漏りをなんとかしたほうがいいんじゃないかと素直に思う。

シイタケ

2年前に植えつけをして、その後あまりに忙しくて家の裏手にほっぽらかしになっていた原木である。すっかり忘れていた。今朝、家人がシイタケが発生しているのをみつけた。2月のはじめ、最低気温マイナス5℃まで冷えているのに…。シイタケというのは、気温の変化に反応して発生するので、ふつうは春と秋が旬である。いまどきは品種改良がすすんでいるから年中発生する「バカ」な菌もけっこうあるという話だ。それにしても、ふつうじゃ考えられない。たいそう驚いている。

シイタケの原木は地べたに転がすのではなく、通気がよいように組んでやらないといけない。写真のような状態ではいけないはずなのだが…。発生しているんだからそれはそれでいいか…。ヒマをみて組んでやろう。

シイタケは学名"Lentinus edodes"。「江戸」です。イタリアの種苗会社のカタログには"fungo shiitake"として載っている。当然ながらフランスでも"shiitake"である。おもしろいことに、乾燥シイタケは"champignon parfumé"ということがある。もっとも、アジアティックな食材という文脈でないと 通用しない名称だとは思う。

ヨーロッパと日本の野菜の味のちがい?

ちょっと古いネタだが、2chのスレッド「イタリア料理店を語ろう☆☆III」から。

116 名前: 食いだおれさん Mail: 投稿日: 2008/07/30(水) 22:49:53
8年間イタリア住んでたけど(トリノ、ミラノ、バーリ)、
やっぱりイタリアンは、素材ありきだと心底思った。
だから、地方にいるシェフ達は自家菜園を造ってるんだろうね。
日本も銘柄豚(イタリアの方が上だけど)や、地鶏の良いのがあるし、
和+イタリアンが益々楽しみになってきたと思う。

117 名前: 食いだおれさん Mail: sage 投稿日: 2008/07/31(木) 14:32:51
>>116
イタリアに有る食材で、いま日本で手に入らないものがある?

プンタレッラも、サンマツツァーノ種のトマトも、カルチョーフィも、
白いキュウリも、丸くて巨大なナスも国内で普通に栽培されている。

長本和子さんが「イタリア野菜のアービーチー」を出版した当時は
見たことのない野菜ばかりだったが、種や苗を持って入れない作物は
今では無いんじゃないかと。

118 名前: 食いだおれさん Mail: 投稿日: 2008/07/31(木) 15:07:05
ないと思う。でも味は違うね。そもそも風土、水、気候すべてが違うのに
イタリアの野菜に執着するのは変だと思わない?
すべてが現地と同じ感覚で調理したいのなら、オイラは渡伊してシェフに
なるべきだと!
日本の野菜、魚、肉で勝負するのも、腕のみせどころじゃねぇ~ん。

119 名前: 食いだおれさん Mail: sage 投稿日: 2008/07/31(木) 15:33:03
シチリアにあるフィキディンディアは日本国内で見たことない。
「インドのイチジク」という名前がついた「サボテンの実」。

私が知らないだけで、どこかで栽培されているかな?

120 名前: 食いだおれさん Mail: sage 投稿日: 2008/07/31(木) 15:51:47
ラディッキオもあまり見ないな。
ナスやズッキーニ、トマト、にんにくみたいな基本的なものでも色やアジが違うし、
カリフラワーやブロッコリも色形が全然違う。
ウイキョウや朝鮮アザミも有るにはあっても何より値段が数倍違う。
庶民的な食材が、普段使いの店では使えないという矛盾。

匿名掲示板だから、書きこみをしているのがプロなのかイタリア料理ファンなのかはわからない。それはさておき、ヨーロッパと日本の野菜の味の違いというのはよくいわれることである。それは、西洋野菜生産を看板に掲げているまきもの屋じしん、認めざるをえないところはある。

さて、「ナスやズッキーニ、トマト、にんにくみたいな基本的なものでも色やアジが違うし、 カリフラワーやブロッコリも色形が全然違う。」というところに反応してみると、これって単に品種による味のちがいをまったくご存知ないだけなのだろう。ここに挙げられているどれも、日本で一般的に流通しているものは、国内市場むけに日本の種苗会社が育種した品種ばかりである。品種による味のちがいというのは大きい。

気候、土壌、日照時間といった風土的なものによる味のちがいというのはある。また、栽培方法による味のちがいというのもある。ただ、以外と見落されているのが、流通過程における味の変化である。メルカートで売られている野菜の大半は、近郊農家のもののはず。いっぽうで、日本の場合はどうだろう。収穫の当日あるいは翌日に食べるのと、何日もたってからで味がちがうのは当然なのである。

野菜の味というのは、おなじものであっても収穫のタイミング、個体差、畑ごとのちがい、そういったことでも変化する、じつにデリケートなものなのだ。

だから、安易に「ヨーロッパと日本で野菜の味がちがうのはあたりまえ」みたいなことを言われると、けっこう傷つくのである。こうみえて、かなりセンシティヴというかデリケートなのである(あくまでも自称だが)。

で、こう言いたくなる。日本の野菜の味が不満というのであれば、きちんと熟成したグラスフェッドの牛肉をだす店がほとんどないのはどういうわけだ? オーストラリアは日本むけにわざわざグレインフェッドを生産、輸出している。グラスフェッド中心のNZ産がほとんどでまわっていないのはどうして? まさか、料理人諸氏が霜降りたっぷりの和牛のほうがおいしいと思っているわけではないはずだが…そのほうがお客さんがよろこぶということか。だとすると、野菜にばかり、ヨーロッパのものと味がちがうことを云々するのはちょっと酷ではないだろうか。

(追記) 牛肉のはなしをしたついでに、やっぱり素朴な疑問なのだが、フランス料理屋で、子羊というと骨つきのロース(いわゆる"carré")ばかりなのはどうしてなのだろうか。フランスでは"gigot"(骨つきのモモ)はごちそうだし、実際おいしいんだけど。個人的にはこっちのほうが好きだなぁ…。それから、クスクスに添えるには、肩とかスペアリブのグリルのほうがいいような気がするんだけど…。

浅間山

浅間山の噴火警戒レベルが3「入山規制」になったそうだ。そういえば、朝早くに軽い地震があったが、地震情報をみてもでていないから、浅間の揺れだったのだろう。2004年の噴火のときは、倉渕は火山灰が若干降ったところもあったらしいが、大きな被害はでなかったということだ。とはいえ、倉渕は一部とはいえ軽井沢町と県境を接しているし、倉渕の土壌は俗に「浅間砂」とよばれる火山灰土壌だから、まるっきり関係ないわけでもない。あらためて地図をみて驚いたのだが、浅間山から直線距離にして20〜30kmしか離れていないではないか。長野方面へ行くには峠越えでたいそう時間がかかるから、普段はとても遠いところのような気がしているのだが…。

(2月2日2時15分追記)なんとなく気になって眠れず、ライブカメラを観ていたのだが、ちょうど2時ごろに噴火がはじまった…。遠くのほうで地響きが聞こえるような気がして、外に出てみたのだが、風の音でさっぱりわからない。映像をみると、噴煙は東に流れているみたいだ。東ってもろに倉渕のほうじゃないかorz…。

(さらに追記)とりあえず大した被害はなかったみたいである。よかったよかった。とはいっても、火山灰は倉渕にこそ降らなかったようだが、すこし南の安中や藤岡、さらには東京まで飛んだみたいだ。風がつよかったからなぁ。レタスやキャベツのシーズン中だと、近隣の野菜は壊滅するんだからおそろしい。それは、倉渕でも同様で、台風にしろ火山にしろ、自然災害には抗えないのである。じっさい、台風や火山はある程度派手だけど、露地野菜なんてものは長雨でも壊滅することもあって、こちらも地味だけどかなりじわじわと真綿で苦しめられるような、かなりキツいものである。

(さらに追記)安心するのはまだ早いみたいだ。気象庁は、さらに大きな噴火の可能性があると言っている。