やっぱり大人にこそ食育が必要なんじゃないか
2chに「嫁のメシがまずい」というスレッドがあって、その まとめサイトを読んでいる。ショッキングで、ときに心うたれる書きこみもある。大量なので、まだ半分をすこしこえたところだろうか。あたらしいまとめサイトもあるが、そちらまでたどりつくにはしばらくかかりそうである。これと似たようなスレッドで、「母が作る衝撃的な料理」というのもある。 こちらはスレッドそのものがミラーリングされたものがある。
まだ全部読んだわけではないし、つぎつぎと書きこまれていくだろうから、読みおわるということもないだろうが、読んでいて「大人にこそ食育が必要なんじゃないか」という思いがつよくなった。誤解されてはこまるが、世の「嫁」さんたちに「食育」が必要とか言いたいわけではない。嫁の料理がヘタだと夫が嘆くとき、往々にして、夫にも問題があるように見うけられるケースもないわけではないのだ。
食は文化である。地域的なもの、歴史的なものが積み重なってできあがるものだ。「家庭の味」というのはまさにそうして伝承され、ときに異質のものを融合してつくりあげられていく。そういう土台というか基本がきちんとあってはじめて、毎日食べても飽きない味というものができるのだ。ある日とつぜん、さあ料理しましょう、でできるようなものではない。
嫁のメシのまずさを嘆く夫君たちにももんだいがあるとすれば、それは、要求しているものが「フツー」であることだ。いためた肉と野菜にあえるだけの酢豚の素とかそういうのでいいという。ひっくりかえすなら、大量消費のなかで陳腐化した味といってもいいだろう。
彼らは「ダシ」をとっていない味噌汁を嘆く。じつはここに、けっこう重要なヒントがかくされているのだ。まず、よい味噌というのは、よい醤油と同様、旨味のかたまりのようなものだ。ダシ入りの味噌なんてものがスーパーで売られているが、これなんか、味噌そのものがおいしくないと公言して売っているようなものである。もちろん、味噌汁の実もたいせつだ。油揚げなんか、そうとう旨味がつよい。野菜だってそうだ。よい野菜は組みあわせによっては、それだけでダシなんか必要なくなる。そういう意味では、味噌汁にカツオのダシなんて、場合によってはクドイだけになりかねない。ましてや、インスタントのダシを想定しているなら論外である。味噌汁にダシをつかわないことじたいを非難するというのは、ほんとうにおいしい味噌や実となる材料をつかっていない、そういうものを知らないということを白状しているようなものなのだ。
よい食材、おいしい料理をただしく味わい、評価すること。これがいちばん重要なことなのだ。そのためには素養がひつようである。日々の食事をとおして味覚を発達させ、食べものについての知識を深めていくべきなのだ。こどものばあい、それは「教育」として与えられる。大人のばあいは、じぶんじしんで意識的に獲得していかなくてはならない。いいかたをかえると、大人はじぶんじしんを「食育」するひつようがあるのだ。「フツーでいい」なんて言わずに、徹底的においしいものを追究してほしいものである。自分で料理するのもいいし、外食してもいい。夫婦で、家族でおいしいものを食べるよろこびを知ってほしいと思う。それが「食育」の第一歩になるだろう。




