Agriculture Raisonée (4) -- 自然ナントカのこと
これまで、「有機」と「特別栽培」について問題点を整理してみたつもりだが、こういう国が定めた規格、ガイドラインで「望ましくない」とか「禁止」とされている表現があって、その代表が「天然」と「自然」である。「自然栽培」なんてのはたしかによろしくない。栽培というのは人為にほかならないわけで、そもそも「自然」と相反するはずなのに、「自然」といっていかにもいいようなイメージを見るものに抱かせる、たんなるインチキである。
もっとも、こういう言いかたをすると、「自然農」も否定しなければいけないみたいだが、あれはたしかに野菜にかんしてはいろいろとおかしなところはあるけれど、すくなくとも福岡正信が確立した「クローバー緑肥、不耕起、無肥料、直播き、無農薬」のコメの栽培システムは理にかなったところもある。なにしろイネはチッソの要求量がすくないから、古くからの田んぼであれば、マメ科が空気中のチッソを固定したり、用水からごくわずかでも養分が流入するなどしておぎなわれ てイネの栽培にひつような肥料分の収支がバランスとれたりするのである。このあたりのことは西尾道徳『有機栽培の基礎知識』(農文協)にくわしい。
ただ、おなじ「自然」をうたっているものでも、「肥毒」ということばがでてくるものはちょっとちがう。このコトバは、岡田茂吉という宗教家がいいだしたもので、いわゆる「自然農法」の特徴でもある。もっとも、こちらの系統の「自然農法」は「肥料は毒」といいながら、植物性の堆肥や残渣をもちいたり、EMボカシをつかったり、ちょっと一貫性がなかったりする。不思議なのは、「化学肥料は毒」というのならまだわかるが、畜糞をもちいた堆厩肥も毒とするところである。糞だから汚いという発想なのだろうか。ふつう堆厩肥にもちいる畜糞というのは、飼料として植物質のものがつかわれている。抗生物質やらなんやらということをべつにすれば、植物を食べた動物の糞はいけなくて、植物そのものを畑に投入するのはいい、という理屈がわからない。
もうひとつ「肥毒」といえばさいきん一部で話題の「無肥料栽培」もそうである。これなんか「元素転換」なんてことをいうから、かなり眉唾ものではある。これにかぶれている方々は、だいたい、ごく特定の品目しかでてこないことに疑問をもたないのだろうか。耕起するというところはちがうけれど、肥料がらみの理屈としては、福岡正信のイネが無肥料でできたこととおなじである。これに加えて、野菜の種子を環境に適応するように自家採種するところがミソである。トマトやニンジンなんか、もともと肥料要求がすくない。まきもの屋のことしのトマトは、じっさい、無肥料だった。それで充分な収量があがった。そういうものなのである。誰も肥料なんかやらない原っぱの雑草はよく育つ。でも、おなじ雑草が肥料を投入した畑ではどうなるか。ふつうは、もっとよく育つ。そもそも野菜というのは、自然に自生していた植物を長い年月をかけて人間が食用に適するように育種改良しつづけたものなのである。まるっきりの自然のものではない。極端な例でいえば、たとえば玉レタスのような結球野菜を無肥料でつくってみたらいい。運がよければミニミニレタスができるだろうが、それが限界である。苦くて食べられたものじゃないだろう。
さて、表示の問題だが、「自然」ナンタラとかというのは、商品としての農産物に表示するのはいけないということになっているが、「自然農」とか「自然農法」をやっています、みたいな商品そのものについての表現でなければまったく問題はない。「有機」にしても、商品につける表示としては認証をとっていなければならないが、まきもの屋が所属している「JAはぐくみ倉渕有機部会」みたいな組織の名称はJAS法とはかんけいがない。このあたりが一般のひとびとにはわかりにくい原因のような気もしないではない。
内実はどうであれ、「無肥料栽培」というのは、じつによくできた表示である。じじつ肥料をつかっていなければ、そのとおりだからまったく問題ないはずである。しかもコトバとしてインパクトがある。「無農薬」が事実上禁止された表現になってしまったのにたいし、こちらは野放しである。もっとも、そんなことを言うまえに、某大手野菜宅配業者がつかっている「低農薬」という表現のほうが問題だろう。農水省がこれを放置しているのが不思議でならない。
