教える?
たとえばのハナシである。内燃機関のひとつ、ガソリンエンジンなんかはこの100年以上、原理はまったく変っていない。個人の趣味でも事業でもいいが、エンジンをつくって自動車だかオートバイだかに載せてみようと計画なりをする。計画段階でも実行しているどのステージでもいいが、たとえばHONDAなりYAMAHAに「いま直噴4気筒1500ccくらいのエンジンの製作にとりくんでいるんですが、製作上のポイントとかコツを教えてください」なんてメールで問いあわせをするだろうか。あるいは、そういうメールにたいして、メーカーはどういう返事をするだろうか。
農業の世界ではこういうことがまかり通っているのである。「○○という野菜の栽培方法を教えてくれ」なんてメールをいただいたことは一度や二度ではないのだ。そりゃ野菜の栽培技術なんてものはほとんどがパブリック・ドメインになっているのが現実だから、企業秘密みたいなものはそうそうはない(もちろん例外はある)。皆が共有していい知識であるから、訊いたら教えてもらえると思う気持ちも理解できなくはない。じっさい、訊かれもしないのに栽培技術について滔々と語る生産者もすくなからずいる。
でも、「教える」ということをしばらくのあいだ仕事にし、それで生活の糧を得ていた身としては、たとえパブリック・ドメインな知識であっても、見ず知らすの相手によろこんでロハでお教えすることはできないのである。ある知識を教えることのできる人間が、その知識を得るにはすでに相応のコストなり時間なり、本人の努力なりといったものが必要だったのであって、それを習得したのちに「教える」ことができるようになったわけである。「教える」ということは、そうそう気安くできるもんじゃないのだ。
もっとも、まきもの屋も気が弱いところがあるので、「○○という野菜の栽培方法を教えろ」という見ず知らずの相手からのメールを無視することもできない。仕方ないので、イタリア語かフランス語の文献かWEBサイトのURLくらいは提示することにしている。だいたい、そういう返事を送ると、それっきり音沙汰なくなるのだが、さらに、その内容を日本語で教えろ、という要望があるなら業務として翻訳を承る。もちろん相応の料金はいただくことになる。これを「意地悪」とか「ケチ」と受けとめるのであれば、もういちどこの文章を最初から読みなおしていただきたい。どんなに懇切丁寧に日本語で説明したって、それっきり礼の一言もなかったことだって一度や二度ではないのである。
プロの生産者がイタリア野菜、フランス野菜を栽培するというのであれば、多少なりともイタリア語、フランス語の知識は必要である。そうじゃないと、じぶんのつくった商品に責任が持てないでしょう。まずは語学からはじめ、食文化にかんする知識を深めるのがよいと思う。「急がば回れ」というではないか。基礎は大事なのである。その基礎をすっとばして、オイシイところだけを得ようとするのはよろしくない。そんなことでは結局は「なんちゃって」西洋野菜しかできないと肝に銘じていただきたいと思う。
もちろん、まきもの屋の商品(=野菜)をレストランで調理してお客様に召しあがってもらうにあたって必要な知識、情報はきちんと提供させていただいている。また、売り手や使い手の方々に商品をアピールする段階で必要な知識、情報も同様である。こういうのはメーカーの広告、広報、顧客サポートとおなじであって、同一内容の知識、情報であっても上に書いたのとは意味あいが異なる。