裏方の裏方
ちょっと気取ったことを書いてみる。いつもの如く、ムダに難解な戯言、というか、意味不明な文章だろうから、例によって、生暖かくスルーしていただきたい。
レストランが劇場だとする。お客さんそれぞれが主役である。お店のスタッフ、サーヴィスのひとも料理人さんも、みんな裏方である。出入りの業者やわれわれ生産者というのは、さらにその裏方である。裏の裏だからオモテだなどということはない。ここまでは異論はあるまい。
ちょっと厄介なのは、レストランという劇場では、お客さんは観客でもあるということだ。このとき、主役は料理長であり、また、料理そのものである。カメリエーレ、ソムリエは準主役といったところだろうか。シュエイクスピアは劇中劇を多用したが、これに似た構造である。有名なところで、『ハムレット』にあてはめてみるといいだろう。ハムレットはいうまでもなくこの芝居の主役である。彼は旅芸人の一座に芝居をさせる。これをハムレット=レストランの客、旅芸人の一座=レストランのスタッフ、と考えてみる。あくまでも、ほんとうの主役はハムレット=レストランの客である。が、彼はレストランのスタッフの演じる劇中劇の観客でもある。そういう構造である。
劇中劇というのは、文学とくに物語の分析をするときには、「入れ子」構造という用語をつかうのだが、外枠である全体の物語とそのなかで「入れ子」になっている内枠の物語において、しばしば相似形あるいはそれに準ずる構造をもつ。いまは研究論文を書いているわけじゃないから、そういうものなのだ、ということで勘弁ねがいたい。
『ハムレット』でいうなら、王の死というモチーフで外枠の物語と劇中劇が共鳴する。それとおなじで、レストランのそれぞれのお客さんの人生という物語とその劇中劇であるレストランのスタッフと料理が演じている物語はなんらかのかたちで共鳴するのである。ちょっと程度のひくい喩えをするなら、「東京イタリアン」におけるアンティパスト→プリモ→セコンド→もういちどプリモ、という食事の流れである。お客さんの意識下にすりこまれている「炭水化物=ご飯はさいごの〆」というのにうまく共鳴するのだろう。
ひとは、まったく未知のものをいきなりすべて理解することはできないし、ましてやそれを楽しむということはない。未知のものに触れるとき、それまでの知識、体験からなる体系のなかで理解しようとするのである。このBLOGでもたびたび俎上にのせた、パンとバターの問題なんか わかりやすいだろう。バターをオリーブオイルに置きかえるくらいであれば、すぐに理解できるのである。が、パンにたいするバターが、コメの飯にたいするフリカケあるいは梅干のようなものだということまでは理解できない。そうなると、「ウチの店はバターもオリーブオイルもだしません」というのがお客さんによっては、理解不可能なことになってしまう。
あくまでもお客さんは主役なのであり、劇中劇の観客である。劇中劇のほうから外枠の物語に干渉するのはおこがましい、ハズなのだが、このあたりから問題はややこしくなる。たとえばモーツァルトのオペラ『コジ・ファン・トゥッテ』(台本はダ・ポンテ)。二人の若者が恋人の心をためすために芝居を打つのだが、ドン・アルフォンソというおじさん(イタリア喜劇の定型でいうとドットーレ)が糸をひいている。で、一種の劇中劇のようなものが展開されるわけだが、この劇中劇というか、ドン・アルフォンソが『コジ・ファン・トゥッテ』の物語の展開を決定づけているように見えるのである。
ドン・アルフォンソを「作者の分身」とみてもいいし、虚構の世界の「もうひとりの作者」としてもいいのだが、ほんらい「従」にあるはずの入れ子になっている世界から、外側の主役の世界への干渉ということになる。イタリア料理でいえば、「食事の流れは前菜→プリモ→セコンド→ドルチェですよ」とお客さんに提案することは、いってみれば劇中劇の側から本来の主役にたいして影響をあたえようとする行為ということになる。それはかならずしも否定されるべきことではないと思う。ただ、忘れてはならないのは、ほんとうの主役は誰か、ということである。
ところで、いまどきは、「素材が主役」というようなことをおっしゃる料理人さんもおられる。生産者をクローズアップするようなマーケティングも多い。本心からそう言っているのかどうかは知らないが、「裏方の裏方」まで劇中劇にひっぱりだされた格好である。ヘタをすると、「その料理のほんとうの作者は誰?」ということになりかねないほどである。ピランデルロの『作者をさがす六人の登場人物』か? 生産者はモチーフを提供しているだけなんだから、料理長がレストランの劇中劇の作者でなくてはならないのだが、そうではない、という身振りをとるわけだ。で、生産者も舞台にでてきて役柄を演じることになる。
そう、「演じている」のである。そのことを自覚しているかどうかはべつとして、ある役割を演じていることは否定できまい。シェイクスピアの「この世はすべて舞台、男も女もみな役者にすぎない」を思いだすといいだろう。まさしくこの意味において、まきもの屋は「裏方の裏方」を自任している次第である。